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大阪市 住まいのガイドブック あんじゅ

企画展「大阪の長屋」

  近世・近代を通して、借家は大阪の住まいの一般的な形態で、そのほとんどが長屋でした。近代には市街地の拡大に合わせて数多くの借家が長屋建てで建設され、門塀が設けられた邸宅風やバルコニーを設置した洋風など、さまざまな長屋が生み出されました。戦災でその多くが失われ、高度経済成長期以降にも激減しますが、近年、その再生や活用が注目を集めています。

 

 本展は、大阪における長屋の形態、大阪における長屋の形態意匠・住まい方に焦点をあて、近世から現代までつづく大阪の長屋の伝統を再評価しようとするものです。展示の構成は、近世から明治、昭和戦前期をへて現代まで、大阪の長屋の歴史を通観しています。今回はじめて紹介できた内容の一部をまとめておきます。

 

 企画展「大阪の長屋」会期:令和5年2月25日(土)~4月16日(日)

 詳細は大阪くらしの今昔館のページ

 

  

近世大坂の長屋

 十九世紀始め随筆『所以者何(ゆえんはなに)』に「大坂ハ御覧の如く長屋建家多く御座候(ござそうろう)」とある通り、大坂は長屋の多い町だったようです。そこには、大きな住宅需要があり、土地所有者にとって、借家経営は魅力的な資産運用でした。


 「玉水町絵図(たまみずちょうえず)」(元禄十五年・一七〇二ごろ)は、現存する大坂町家の絵図のなかで、もっとも古いものと考えられ、豪商加島屋(かじまや)久右衛門が建てた借家の図面です。

 

 蔵屋敷が立ち並んでいた土佐堀川に面して蔵を長屋建てにしていて、近世には様々な長屋があったことが分かります。また加島屋では所有する土地の運用にあたって借家を経営するのですが、その際の計画から実施に至る書類が「廣岡家高麗橋二丁目掛屋敷絵図」です。積算を含めた実現までの計画の変遷がよく分かります。

 

 それでは長屋は町なかでどのように建てられていたのでしょうか。「愛日学区連続平面図」(注1)は、明治十九年(一八八六)の北船場にあった約九百軒分の間取りを図化し番地に合わせて繋ぎ合わせた大きな連続平面図です。(注1)二〇一五〜一七年度科学研究費補助金「博物館ネットワークによる近世大坂の都市的研究の構築と展示展開」(代表・谷直樹)による作業をもとに作成。

 

【図1】は連続平面図から平野町五丁目を抜き出したものですが、通りに面した表長屋と路地に面した裏長屋からなる空間構成がよくわかります。 

 

御霊神社前の長屋
『摂津名所図会大成』より

 

 

 大坂の借家経営で特徴的なのは「裸貸(はだかがし)」のシステムです。大坂では家の外廻りの建具などは家主が用意し、室内の建具や畳は借家人が自分で工面するものとされていました。これを裸貸と呼んで、建具付きの「付貸(つけがし)」と区別していました。

 

今昔館9階展示室・裏長屋にみる裸貸
裸貸の貸家。空家の状態。

入居後の状態。畳・障子戸・流し(はしり)・竈(へっつい)・神棚などは、借り手の持ち込み。

 

 本展では備え付けの設備を書き上げた弘化三年(一八四六)「家付物」と「小林家文書」(大阪市立中央図書館蔵)から、「身代限諸色附立帳(しんだいかぎりしょしきつきたてちょう)」を展示しています。様々な理由で没収された借家人の所有物のリストで、一般的な家財道具の他に、畳・竈(かまど)・建具なども書き上げられていて、裸貸の様子がよくわかる面白い資料です。

 

『街能噂(ちまたのうわさ)』貸家の張り札
貸家の張り札は、江戸ではまっすぐに張るのに対して、大坂では斜めにされていた。

美章園の貸家札(西山夘三撮影)

 

 

近代大阪の長屋


 昭和十七年空撮 マップなびおおさか(©国土地理院)海老江周辺

 

 近代に入ると大阪の都市圏は拡張を続け、旧三郷地域の周辺に次々と新市街地が形成されました。「新開地」と呼ばれた新市街地では、大正年間に毎年五千戸の割合で住宅が増え、昭和戦前期になると毎年一万戸以上になりました。この間、大量に建設された住宅の九割が借家と推計され、また昭和十五年(一九四〇)の調査でも総住宅戸数の九割以上は長屋建てでした。ただ、明治半ばまでの長屋建設は無秩序で、居住環境として問題のあるものもありました。

 

 そこで明治十九年、全国に先駆けて「長屋建築規則」が大阪で布達され、さらに明治四二年に大阪府令「建築取締規則」によって、新市街地では狭小な裏長屋は許可されなくなり、一定の質を確保した表長屋が建設されていきます。また明治末から始まった耕地整理事業や大正末期以降に施行された土地区画整理事業によって、整然とした街区が形成され、そこに長屋が次々と建てられて、新しい町並みがつくりだされました。

 

 新市街地では、外観や構造が江戸時代のものとは異なる新しいタイプの長屋が生まれました。新しい建築規制に合わせて、本棟を道路境界から後退させ、前面に門と高塀や生垣を配して前庭を確保したものも現れました。このほかに、腰折屋根や、円形や八角形の飾り窓を設けたもの、外壁を銅板やタイルで仕上げ箱軒をつけたもの、2階にベランダを設けたものなど、多様な洋風の長屋も建てられました。近世以来の様式を受け継ぎつつ、新しい技術や材料を使って大きく変化し、新しい形態の長屋が生み出されたのです。

 

 本展ではまず、近代長屋の姿をとらえた古写真を紹介します【図2〜5】。大阪の長屋の多様性には驚かされます(注2)

(注2)昭和戦前期の写真は建築計画研究の第一人者であった西山夘三の撮影。昭和四十〜五十年代のものは、大阪工業大学寺内信教授( 当時)の研究室の調査資料で、寺内教授のご遺族と、調査メンバーであった和田康由氏(和田氏については特集ページをご覧ください)の提供。

 

  
加賀屋(昭和10年)NPO法人西山夘三記念住まいまちづくり文庫蔵

都島(昭和11年)NPO法人西山夘三記念住まいまちづくり文庫蔵

  
阪南(昭和50年)和田康由氏提供

福島(昭和54年)和田康由氏提供

 

 企画展 辻榮長屋の外観・内観

大阪の長屋 いま・みらい

 
 近代住宅として発展した大阪の長屋でしたが、多くは戦災で失われました。戦災を免れたものも老朽化が進み、借家経営を取り巻く環境の変化から除却されたり、戸別に更新されるなどして、数を減らしていきました。最近では空家問題の課題にもなっています。

 

 大阪の長屋を見直す機運が生まれてきたのは一九九〇年代の後半からです。まず空堀・中崎町・福島などで先駆的な再生事例が生まれました。歴史的・文化的価値が再認識される時代のなかで、大阪の居住を支えた長屋にようやく光があたりはじめたのです。

 

 こうした動きのなか、阪南・寺西家の長屋の保存・活用は大きな話題になり、長屋として全国初の国登録有形文化財となりました。その後大阪では、四軒八棟の長屋が登録有形文化財となっています。その一つ、豊崎長屋(吉田家)には、同じ時期に大阪市立大学(現大阪公立大学)のチームが保存・活用に関わり、耐震・防災から路地を介したコミュニティ再生まで、幅広い視点の取り組みを継続的に進めました。

 

 この2つの例は、長屋の保存・活用に関心をもつ人々に大きな刺激を与え、各所でさまざまな取り組みが始まっています。本展で紹介したのは、登録有形文化財の長屋、オープンナガヤ大阪(大阪公立大学長屋保全研究会主催)のイベントに参加経験のある若手建築家の仕事です。それぞれに長屋の価値をとらえ、それぞれに保存・活用の方法を探っています。

 

 いま、このように長屋に関心をもち、長屋を愛する人びとの取り組みに、行政の支援も加わってきました。長屋への評価も変わりつつあります。ただ、老朽化した長屋の継承にはまだまだ多くの課題があります。所有者・居住者に専門家・行政も加わって、さらに知恵をしぼっていきたいものです。この企画展がそのきっかけになれば幸いです。

 

企画展 建築家の提案