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大阪市 住まいのガイドブック あんじゅ

城北バス住宅―シェアして暮らす ―谷 直樹 (大阪くらしの今昔館館長)

大阪くらしの今昔館の近代展示室「城北バス住宅」。廃車になったバスを円形に並べていた。

 

 太平洋戦争末期の空襲で、大阪は約一万五千人が犠牲になり、市内は焼け野が原と化した。焼け跡では九千世帯が雨風をしのぐだけの壕舎生活を余儀なくされた。戦後、大阪市は市営住宅の建設を再開したが、その中に「バス住宅」と呼ばれる仮設住宅があった。これは廃車になった木炭バスを住宅に再利用したもので、旭区豊里町(現在の旭区大宮五丁目「城北バス住宅」)と都島区友淵町(現在の都島区毛馬「毛馬バス住宅」)に設置された。当時の新聞によると、城北バス住宅は昭和二一年一一月七日に車体が運び込まれ、「便所、炊事場、洗濯場などの共同施設を囲んだ円形に並ぶこのバス住宅は、四つのガラス窓を残してあとはベニヤ板張り、内部は前と後ろに三段の棚をつけ、四畳半ぐらいの部屋にした上で貸しつけられる。」(毎日新聞、同月九日号)と記されている。

大阪くらしの今昔館では、戦災からの復興を代表する住まいとして、城北バス住宅を模型で再現することにした。根拠にした資料は、西山夘三氏(元京都大学教授)が昭和二五年一月一六日に採取した図面で、T氏宅(祖母のいる五人家族)と、中央にある共同炊事場・便所の間取りが分かる。それによると、バス住宅の内部は新聞記事にも書かれた棚があり、住人の改造であろうか、床は畳敷き、窓に引き違いの紙障子をはめこみ、ミシン、ラジオ、七輪、衣桁がそろえられている。バスの乗降口の横に台所が増築され、車のシャーシは薪置き場になってタライを干している。共同炊事場には流しと調理台、そして洗濯場があり、隣接して四穴の共同便所が設けられている。

バス住宅の住人は平均三、四人、中には九人という超過密な世帯もあり、夏は太陽の輻射熱で蒸し暑く、冬は冷え込みが厳しい、住宅としては不完全なものであった。しかし、住宅難と激しいインフレの時代に、家賃は五五円と安く(当時のはがき代(二円)を基に換算すると現在の一七〇〇円程度)、隣近所とのつながりも深かったので住み続ける人も多かった。城北バス住宅は昭和二六年に用途廃止になったが、毛馬バス住宅は昭和三〇年まで一〇年近くも存続した。

今昔館のバス住宅模型を設計した建築家の加藤恭子氏は、「穏やかな空気に包まれたくらしと復興への兆しが表現できるようにと心がけました。(中略)〝平和のありがたさ〞をつたえられます」という設計意図を書いている(加藤恭子「大阪市営賃貸住宅「バス住宅」の

模型と設計」『大阪市立住まいのミュージアム研究紀要・館報』第2号 平成15年度)。

 

 

付き合いの原点井戸端会議

 

 

 「京の門掃き」という習慣がある。京都の人は、表の道路を掃除する時、間口より少しだけ隣家に入り、道路の中心線をわずかに越えた範囲を掃き清めて水を撒く。これが昔からの作法である。隣人に干渉せず、かといって無視もしない。誇り高い京都人は、表の付き合いを大切にしたのである。

 江戸時代の京都には、「町式目」と呼ばれる掟書があった。そこには、町での付き合いについての様々な定めが成文化されている。同じ時期の大坂にも「町中式目」「勘定仕法」と呼ばれる掟書があった。大阪くらしの今昔館には、宝暦六年(一七五六)に定められた、本町一丁目の「掟」が所蔵されている。そこには、こんな申し合わせがある(参照:資料紹介「本町一丁目町式目」『大阪市立住まいのミュージアム研究紀要・館報』第4号 平成17

年度)。

 一丁内軒下幷大道銘々勝手ニ高ク致間敷(まじく)候

 一家屋敷普請仕候節、地形(じぎょう)隣家ゟ(よろしくお願いいたします。い)格別高ク仕間敷候

 

本町一丁目の町式目「掟」の表紙(右)と冒頭部分(左)。

 

 この掟からは、町内、とりわけ隣近所と協調して、町家の前の道路や地形(建築の地固め)を築くときに勝手なことをしないように戒めていることが分かる。大坂は京都より大都市で、人口移動も激しいので、詳細な取り決めをして町中に徹底させたのであろう。近代になると、京も大阪も道路の管理は役所の仕事に移り、町の掟は廃止される。しかし、伝統を重んじる京都では「門掃き」のような習慣が残り、近代都市への転換が早かった大阪では、このような習慣が廃れていったのであろう。

 一方で、裏長屋の借家人たちには、別の付き合いがあった。今昔館の近世展示室に再現された裏長屋の路地の奥には、住民のための生活共同施設が配置されている。共同井戸と共同便所である。江戸時代の大坂の井筒(井戸枠)は「豊島(てしま)石の全石を穿(うが)ち貫きて制す」(『守貞謾稿』)とあるので、今昔館では瀬戸内海に浮かぶ香川県の豊島から豊島石を取り寄せて井戸枠を作った。しかも使い古したようにエイジング(時代色)を施して当時の様子を再現し、井戸釣瓶(つるべ)も設けた。「つるべ」と聞くと、落語家の名前を連想する人が増えているが、こちらが元祖である。本来、釣瓶は水をくみ上げる桶のことであったが、やがて滑車も含めて井戸釣瓶と呼ぶようになった。

 井戸の周りは、裏長屋のおかみさん連中が、いわゆる「井戸端会議」に花を咲かせた場所である。大正十二年(一九二三)に桂文雀(一八六九~一九三九)が演じた「長屋議会」という落語のテキストデータがネットに公開されている(世紀末亭)。「議会」という演目から大正頃の新作と思われるが、その内容は江戸時代と大きく変わらない。その一節を読んで、裏長屋の付き合いを想像していただきたい。

  • まぁ聞きなはれや、あのお方、何かによぉ気の付く偉い人やし。昨日の朝から家来てやってな「ご飯炊きかけてんねんけども、割木が足らんさかいに二、三本貸してくれんか」言ぅてやの。わたいな「そんなこと遠慮しなはんな、近所同士ご互い、わたいとこかてまた足らんもんがあったら借りに行くねやさかい、遠慮せんと使いなはれ」言ぅてな……大きな声で言われんけど、家の親っさんこないだそぉ、ドブ板盗んできてせぇだい割ってたやろ、あの踏み板の割ったん二枚貸したげたん。ほたら、今朝になったらな、まぁ上等の割木四本も返してくれはんねん。燃やしつけても火ぃの効きが倍から違いまっしゃろ……、せやさかいわてな、あのお方、大したもんや思て一人褒めてんのん。(中略)
  • わたいかて、こないだ入って行ったらな、ほたら、焼き豆腐のおかずや。ほでな「加減見てくれ」言ぃはるさかいな「こんな色の薄いもん食べられへん、お焼きはしんみり炊かないかんさかいな、うちの醤油持ってきて貸したげまっさ」て、こない言ぅたらな、ほたら「醤油、ぎょ~さんある」と言ぃはんのん。「あるやろどけど、うちの醤油まぁいっぺん使いなはれ、そら焼き豆腐によぉ合うねやさかい」ちゅうてな、わて走って戻ってな、湯飲みに一杯持って行って目の前でぶっちゃけてきたん。あれ、当然、辛ろぉて食べられへんやろ思てたん。それでもやっぱりな、湯飲みにちゃ~んと二杯持ってきて返してくれはんねん。

 このように、井戸端会議は、生活を共にする井戸に集って、おかみさん連中がたわいのない話や噂話に興じたものであった。

 裏長屋の付き合いは、近代になっても庶民の間で継承された。今昔館の近代展示室にある「空堀商店街」(昭和十三年)の模型を見ると、路地の一画に、おかみさんの立ち話や子どもの行水姿がある。しかし、同じ時期の郊外の新しい住宅地を再現した「大大阪新開地」模型には路地や裏長屋がない。これは「大阪府建築取締規則」などの法律によって路地や裏長屋が許可されなくなったことによる。江戸時代以来の大阪の庶民の付き合いが姿を消していったのである。

 近代の大阪は、市域が年輪のように拡大し、そこに仕事を求めて他県から大勢の労働者が流入してきた。一方で、船場のような都心では、住人が郊外の住宅地に転居し、空洞化していった。この二つの現象が重なって、伝統的な付き合いが消滅していったのである。

 

空堀の路地の付き合い。