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大阪市 住まいのガイドブック あんじゅ

温故知新―うめの花平棗―

 扁平な形状をした木製黒漆塗りの平棗(ひらなつめ)。棗の底裏をのぞく蓋と身の外側には、朱漆を中心に置き、白、緑の色漆で縁取られた梅の花が散らされています。各花の中央にあるシベは、金の平蒔絵で繊細に描かれており、その外端は円形に広がるのではなく、やや五角形に近い表現になっています。一方、蓋と身の内側や規方(蓋と身が重なる立ち上がりの部分)などには、大粒の銀平目粉(薄く平らに延ばした蒔絵粉)が隙間なく蒔かれており、一つの棗の内(蒔絵)と外(漆絵)でそれぞれに異なる表情を楽しむことが出来ます。

 

 《うめの花平棗》(大阪くらしの今昔館蔵)

 

 

 作者の神戸雪汀は、明治8年(1875年)に加賀藩士神戸盛久の長男として金沢市内で生まれました。名は寛治、号は雪汀、遙霞軒と称しました。若くして絵画に関心を寄せていましたが、後に加賀蒔絵の道を志したと言われています。23歳の時に大阪に出て蒔絵の研鑽を積む一方、洋画家をはじめとした多くの芸術家と親交を深めました。当時の記録によると大正5年(1916年)には東区瓦町、大正15年(1926年)には天王寺区上汐町に住んでいたようです。大阪では特に茶道藪内流の藪内節庵の知遇を得たことで、吹田の仙洞御料庄屋・西尾家との関係を深めてゆき、蒔絵師として茶道具等の制作を続ける一方、西尾家の内部支配人も務めました。

 

 本作の外箱の蓋裏には銀蒔絵で「丁巳初冬」とあり、雪汀の生没年(1875~1971年)から、大正6年(1917年)の制作であることが分かっています。90歳の頃まで制作を続けたとされる雪汀には、大阪を中心に多くの作品が残されていますが、本作は具体的な制作年が判明している比較的初期の基準作として注目されます。銀蒔絵による箱書きの近くには、これまた漆工の職人らしく、朱漆による「温故知新」の方印が押されています。雪汀は、自らが熱心に収集・研究していた手づくねの古陶器や洋画の表現を積極的に自身の作風に取り入れようとしていました。「温故知新」の印は、近代の蒔絵師として既存の枠組みを超えた作品制作をしようという雪汀の気概の表れであったように感じられます。

 

外箱の蓋裏には銀蒔絵で「丁巳初冬」と記されている

 

上田 祥悟(大阪くらしの今昔館学芸員)