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大阪市 住まいのガイドブック あんじゅ

新収蔵品「淀川両岸帖」について岩間 香(摂南大学名誉教授・日本美術史)

 大阪くらしの今昔館が新たに収蔵した「淀川両岸帖」は、江戸時代の絵師・円山応挙(まるやまおうきょ)(一七三三~九五)が描いた「淀川両岸図巻」(重要文化財)の中から選択した六場面を、昭和十五年(一九四〇)に大阪画壇の重鎮である庭山耕園(にわやまこうえん)(一八六九~一九四二)の一門が忠実に模写し、画帖に仕立てたものである。

 原本である応挙の「淀川両岸図巻」は、宝暦十三年(一七六三)に下絵が、明和二年(一七六五)に本画が完成した。それは、京都の伏見から大坂の八軒家にいたる淀川両岸の風景を、船上から見たかのように描いたことで広く知られている。この時期の応挙は、眼鏡絵の制作を通じて西洋画の遠近法や陰影法を修得し、自身の作風を確立しつつあった。山ひだや波の写実的な表現はその成果といえる。現在、「淀川両岸図巻」は公益財団法人アルカンシエール美術財団が所蔵し、ハラミュージアム アーク(群馬県渋川市)に収蔵されている。

 今昔館所蔵の「淀川両岸帖」には、制作の経緯を書いた別紙が存在する。

 於大阪城紀州御殿
 寫先師圓山應擧先生淀川両岸絵巻
 枚方萬里荘田中太介雅君請嘱
 昭和庚辰五月 七十二叟後学耕園題簽
 伏見乗舩場 門人香桂(印)
 淀城    門人章園(印)
 八幡山崎  門人耕風(印)
 枚方    門人耕秋(印)
 守口    門人耕喬(印)
 浪華天満橋 耕園(印)(印)

 これは昭和十五年五月に庭山耕園が記したもので、大阪城の紀州御殿(天臨閣)において円山応挙の淀川両岸絵巻を模写したこと、依頼主は枚方萬里荘(ばんりそう)の田中太介という人物であること、模写の分担は、「伏見乗舩場」を山田香桂、「淀城」を春元章園、「八幡山崎」を熊田耕風、「枚方(ひらかた)」を乙馬耕秋、「守口」を耕喬、そして最後の「浪華天満橋」を耕園自身が担当したことが分かる。

 庭山耕園は姫路の生まれで、父が姫路藩大坂蔵屋敷につとめていたことから、廃藩置県後は大阪北船場に居住した。大阪の日本画家・上田耕冲(一八一九~一九一一)に師事し、四条派の瀟洒で淡麗な花鳥画を好んで描いた。また、大阪画学校の開設に参加し、大阪絵画協会委員、大阪美術会顧問をつとめるなど大阪画壇で重きをなし、さらに円山応挙の絵の鑑定を行なっていた。

 

図1模写風景(大阪城紀州御殿内)

 図1によると、紀州御殿の板敷の廊下とおぼしきところに茣蓙を敷き、絵巻物をすべて広げて、一斉に模写にとりかかったことが分かる。

図2伏見乗松場

 ここで模写された六景を紹介したい。最初は「伏見乗舩場」の場面(図2)。右端には参勤交代で使う六艘の御座船が停泊しており、藩の旗印を掲げている。そして大坂への船が出帆する南浜周辺の町並みが描かれている。

図3淀城

 次は「淀城」の場面(図3)。画面の下半分に描かれた淀城は、京都の南を警護する譜代大名の城で、左端に名物の大きな水車が描かれている。

図4八幡山崎

 「八幡山崎」(図4)は、画面の上に天王山が、下には男山が上下反対に描かれ、ちょうど船上から見渡したような臨場感にあふれている。この地は古来、京に入る要衝で、天王山は明智光秀と羽柴秀吉の両軍が戦った山崎の古戦場、男山には石清水八幡宮が鎮座し、都の裏鬼門を守護していた。伏見に停泊していた御座船が、ここでは帆いっぱいに風を受けて大坂に向かっている。

図5枚方

 「枚方」(図5)は、画面の下に枚方宿が描かれている。宿の中心部の建物は瓦葺きであるが、周辺部が草葺きに描かれており、当時の民家の屋根材料の普及状況がよく分かる。

図6守口

 「守口」(図6)は、大坂から二里という京街道最後の宿場で、本陣は一ヵ所、旅籠は二七軒あった。守口周辺の淀川は、流域ではもっとも難所で、波立つ急流が見事に表現されている。

図7浪華天満橋


 そして最後が「浪華天満橋」である(図7)。薄暮の迫る八軒家の港に御座船が停泊している。旗印や提灯に杏葉(ぎょうよう)紋と見える家紋があるので、佐賀鍋島藩の御座船ではないかと思われる。大坂の町並みは、残念ながら数件の町家の屋根しか描かれていない。本図で模写された六景は、淀川の名所として様々な絵画の題材に取り上げられた場所であった。

 

 ところで、模写の依頼主であった田中太介(一八七六~一九六三)は、大正九年(一九二〇)に尼崎で鉄道車両を製造する田中車輌工場を創業し、当時は関西財界の有力者であった(昭和十五年当時は田中車輌株式会社。近畿車輛株式会社の前身)。京阪枚方公園駅の東の高台にあった彼の私邸は、「三万坪を擁して大丘陵に陣取り、淀の眺望を真下に見る絶景で、洋館あり茶屋あり、それぞれ輪奐(りんかん)の美を誇り」と記されている(『新東亜建設を誘導する人々』四五九頁、日本教育資料刊行会、昭和十四年)。昭和六年(一九三一)には秩父宮(ちちぶのみや)がここに滞在し、眼下の雄大な淀川を見て「萬里荘」の名を付けた。萬里荘の別棟の茶室は広島県呉市に移築され、「松籟亭(しょうらいてい)」と名付けられて現存している(国登録文化財。昭和九年、平田雅哉の作品)。田中は自らの半生を描いた画帖を制作し、松下幸之助に茶道の師を紹介し、美術品を収集するなど文化にも造詣が深い人物であった。そして、東京の実業家である原家が所有していた「淀川両岸図巻」の原本を借用し、大阪画壇の重鎮であった日本画家の庭山耕園に模写の制作を依頼したのである。

 こうして完成した「淀川両岸帖」は、丁寧で精緻な模写によって原本の芸術性を余すところなく伝えている。庭山耕園が四条派の源流である応挙を尊崇し、真摯に制作に打ち込んだことが伺えよう。耕園一門は帝展などの全国画壇に出品しなかったが、伝統的な高い技術を擁していたことは、この作品から明らかになる。また模写の制作は、大大阪の発展に寄与し大阪経済界を代表する一人である田中太介が企画したものであった。

 本図は近代大阪の歴史と美術史の重要な資料である。加えて、大阪の文化・歴史を語る上で淀川の存在は計り知れないものがある。今昔館がすでに所蔵している「よと川の図」(一八世紀末)と合わせて考察することで、往時の淀川の景観や生業、交通など、さまざまな情報発信が期待できる作品である。