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大阪市 住まいのガイドブック あんじゅ

Spot2安治川から大阪湾を辿る、日常風景

河村瑞賢(かわむらずいけん)の功績で栄えた貿易港

 毛馬閘門で新淀川と分岐した大川(旧淀川)が、さらに安治川と木津川に分かれる。この2つの川に挟まれた土地が、九条エリアだ。江戸時代、町の発展には水運が必要不可欠だったが、一方で、沿岸の水害に悩まされ続けていた。そこで、貞享4年(1687年)、土木事業家の河村瑞賢が、新しい川を掘り淀川の水を大阪湾へまっすぐに流れ込ませる開削工事を行った。こうして、完成したのが安治川だ。「この画期的な人工水路のおかげで、水害が収まっただけではなく、新たな水運航路を得た大坂は、〝天下の台所〞として飛躍的に発展していったのです」。

 

食料品や日用品の店が並ぶ下町市場は、当時の面影を残している。

 

井戸や地蔵祠が残されている、九条エリアの裏路地。長屋には古くからの住人も多い。

 

町工場として発展した九条の賑わい

 

 こうして九条は、近代大阪の発展の基礎を担うようになった。明治時代には、整備された川口外国人居留地や、府庁・市役所なども立地するようになった。「典型的な商工住混合地区として発達し、ネジや鋲螺(リベット)などの部品を臨海工業地帯に供給していました」。第二次大戦前には、商店や百貨店はもちろん、映画館、寄席などの娯楽場も商店街に軒を連ね、『西の心斎橋』と呼ばれるほど賑わっていた。今でも町を歩くと、多くの長屋を見つけられる。細い路地の奥には、井戸や地蔵祠がひっそりと残っており、当時の生活に思いを馳せることができる。商店街には当時の繁華街の名残はほとんどないが、生活に根ざし、地域住民の暮らしを支え続けている。「オオサカメトロや阪神電車が通り、交通の便も良い。住む町で働く、職住一体の暮らしがまだ残っており、その下町らしさに魅力を感じて住む、若い世帯も増えていますよ」と大場教授。また、東側を流れる木津川の河川敷にある遊歩道では、約15年前から『アドプト・リバー・千代崎』という活動も起こっている。地元住民や子どもたちがボランティアで、四季折々の花木を花壇に植え育て、自分たちが住む町の水辺の風景を豊かにしている。自主的に参加するメンバーの中には高齢者も多く、コミュニケーションも盛んだ。

 

アドプト。リバー・千代崎

 

徒歩で行く「安治川隧道(ずいどう)」と船で渡る「天保山渡船場(渡船場)」

 

 

『安治川隧道』は、24時間いつでも通行できる。現在は歩行者・自転車のみ。右側の扉は車両用エレベーター2基。昭和52年(1977年)に通行が中止された。

 

 人々の日々の暮らしには、移動がつきもの。川の対岸への移動手段として使われたのは、橋だけではなかった。九条には、日本で初めて沈埋工法(陸上で製作した沈埋函を川底に掘り込んだ溝に埋めて連結し、埋め戻してトンネルを作る)により建設された全長約80mの川底トンネル『安治川隧道』がある。なんと安治川の底を徒歩や自転車で移動することができるのだ。完成したのは、昭和19年(1944年)。九条から西九条へと移動することができ、現在でも通勤通学や買い物などで、日常的に利用されている。

 船で移動できる渡船場が、臨海部にある。「現在USJのある桜島など臨海部には、当時多くの重工業が立地していた。そのため港区築港側から桜島側へ渡る『天保山渡船場』は、通勤手段として使われていました」。市内には最盛期で31か所の渡船場があったが、現在残るのは8か所。そのうちの一つだ。撮影に訪れた当日も、出航時間が近づくと自転車に乗った人々が集まってきた。慣れた様子で乗り込んで行くのが見られた。数は減っているものの、渡船は立派な市民の足として活躍している。

 「水に囲まれて暮らしてきた先人の知恵は、現代にも生きています。それ以上に、水運で発達してきた下町の風情を楽しんだり、水辺の自然環境を余暇の充実として活用することは、水辺暮らしのほかでもない魅力であり、新しい体験です」と大場教授。川や水と寄り添うことは、私たちの生活や暮らしを豊かにする、ひとつの選択肢なのだ。

 

天保山渡船場(築港側)に向かう渡し船。6時~21時の間、15~30分毎に無料運行している。対岸側へは約1~5分後に到着する。