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開館時における調査資料の活用について
資料の整理と目録作成
大阪くらしの今昔館に展示されている江戸時代大坂の町並みや明治から戦後にいたる住宅地模型などは、開館前に建築をはじめ美術史、歴史、民俗など各分野の専門家の協力を得ておこなった調査・研究に基づき制作されており、このときに得られた調査資料は今日も今昔館に保管されています。また今昔館の開館までに策定された構想や専門家による展示並びに運営に関する検討会議の記録なども残されています。これらの資料は今後、アーカイブ化して保管・活用することを予定しており、その基礎作業として資料整理と目録作成、そして活用のためのデータ化をすすめています。
目録化した資料のうち、大半を占めているのが常設展示にかかる調査資料です。近世展示室に関する資料は町家や風呂屋、町会所などの建物に関する建築関係と、各店の間の商品構成や町家内部の生活道具などの情景再現関係に分かれ、建築関係には江戸時代の町家の間取り図や普請関係資料のほか、町家の実測図面や調査報告書などが含まれます。また情景再現関係の資料には、各業種の店頭を描いた絵画資料や研究論文、江戸時代の生活道具にかかる古文書などがあります。近代展示室にかかる資料としては、川口居留地や北船場などの住宅地模型が中心で、当該地の地図や航空写真、古写真、絵葉書、絵画資料、建物の実測図や設計図、聞き取り調査の記録、照会に対する回答(手紙)、社史、研究論文、参考図書と多種多様となっています。
調査資料を活用した解説
では調査資料はどのように活用することができるのでしょうか。これらの資料は常設展示の根拠となっていることから、展示がどのように制作されたのか、またどのような背景をもつのかを知ることができ、展示解説への活用が期待されます。
そこでつぎに、近世展示室および近代展示室の「北船場」模型にかかる調査資料を何点かとりあげ、資料を活用した解説についてみていくことにしましょう。
【近世展示室にかかる資料】
町の連続平面図
明治19年の「建家取調図面」(愛日教育会所蔵)は、旧大阪市立愛日小学校学区内の各町について敷地一筆ごとに建家図面(平面図)を記載したもので、さらに建家の位置が判明することから、これを基に作成されたのが町の連続平面図です。建家図面は明治期の史料ですが描かれた町家は多くが江戸時代のものと推測され、連続平面図は江戸時代の町の構成や集住のあり方を示していると考えられます。これを見ると東西の通りには通り庭形式の戸建ての町家や表長屋が面するのに対して、南北の筋には切り庭形式の長屋が多く、また宅地の奥には土蔵あるいは裏長屋が建っていたことがわかります。展示室の町並みは、こうした大坂の町を再現したものです。
平井常榮堂写真
近世展示室の薬屋は、江戸時代に淡路町通心斎橋でウルユスを調合・販売していた合薬屋肥後屋健壽堂をモデルにしています。「二千年袖鑑」には健壽堂の店頭図が掲載されているものの、店の内部については資料を欠くため、参考にしたのが京都の平井常榮堂でした。伝統的な合薬屋の店構えで、写真には店の間中央に大きな置看板を据え、壁際には百味箪笥を配した様子が写っています。また箪笥の上には原料を入れた紙箱を並べ、天井からは薬袋を吊って乾燥しているのがわかります。正面の窓際には薬草を切る包丁なども確認できます。薬屋はこの店を基に再現しています。
「大坂城跡発掘調査略報」
江戸時代の大坂の地面に関する文献資料はほとんどなく、参考にしたのが発掘調査報告書でした。「大坂城跡発掘調査(OJ92︲18)略報」は、道修町一丁目の宅地において平成4年度に実施された発掘調査の報告です。これには18世紀前半の大坂の地層に関して、「にぶい黄色中~粗砂の整地層」であったと記されており、当時の大坂の地面は黄色っぽい砂質土であったことが判明します。展示室の地面は表通りも含めてその通りに仕上げています。
またこの調査では背割り下水の位置まで達する屋敷境の排水溝が検出されており、溝は木組から石組に変遷したことが確認されています。薬屋裏庭の屋敷境にはこの石組溝を再現しています。
【「北船場」模型にかかる資料】
藤沢商店・聞き取り調査記録
道修町一丁目の藤沢商店は大正5年に建てられた大型の近代町家で、当時の設計図面や写真から建物は伝統的なスタイルを踏襲するのに対して、店の間奥室は洋風の天井を張って畳の上に机・椅子を配するなど部分的に洋風化されていたことがわかります。いっぽう当主(当時藤沢薬品工業取締役相談役)への聞き取り調査の記録によると、昭和初めには店の間をはじめ玄関・内玄関なども畳敷から板敷へ変更されて事務室となり、さらに中庭にも事務室が増築されました。また奥棟の中庭に面した和室は主人室で、昭和7年に初代が亡くなるまで寝起きしていましたが、その後は事務室として使用されるようになりました。事務スペースが時代とともに奥の方へ拡大し、それにともない居住スペースが減少して主人家族が郊外へ居を移す一因となっていたことがうかがえます。藤沢商店はこうした昭和初めにおける町家の変化を示しています。
北村商店・「歳時記」
平野町一丁目に位置する北村商店は昭和初めまでは木造2階建の町家で、北村化学産業の社内報第3号~13号に掲載された小林巌氏の「歳時記」には、当時の町家での暮らしぶりが記されています。小林氏は大正13年から北村商店で丁稚奉公を務めており、その頃は主人家族に加えて住込みの女中さんが3人、番頭さんと12人の丁稚さんが住んでいたほか、女中頭が通いで働いていました。しかし昭和初めには手狭となってきたため、主人家族は芦屋の別宅に女中さんを引き連れて引っ越し、店は住込みの従業員だけとなっていました。職住一致を基本とする町家の住まい方が、この頃には変化していたことがうかがえます。
「石崎株式会社本店改築設計図」
澤之鶴ビルは堺筋に面して建つひときわ大きな建物で、昭和6年11月に竣工しました。「石崎株式会社本店改築設計図」(大林組設計管理部所蔵)はその設計図で、各階平面図、各面姿図、正面玄関及側面矩計等が残されています。図面によるとビルは敷地の東寄り、堺筋と平野町通に面して建つ鉄筋コンクリート造の3階建で、平面はコの字型とし、南東角を隅切りして正面玄関を開いています。いっぽう西寄りには元から建っていた和館や倉庫(蔵)などが並んでいます。このうち和館は居間(18畳)、次の間(9畳)、茶の間(9畳)などからなり、町家の接客空間がそのまま利用されていたことがわかります。澤之鶴の模型は、伝統的な町家から近代的ビルへの変化過程を示す興味ある例と言えます。
「生駒時計店平面図」
堺筋と平野町通の交差点に建つ生駒時計店は、元は木造2階建の町家でしたが、平野町通の軒切りを機に昭和5年に現在の地下1階、地上5階建のビルへ建替えられました。「生駒時計店平面図」はその時の平面図で、1階から3階までは店舗や陳列室が並び、4階・5階には予備室が配されていたことがわかります。ここで注目されるのが、5階にはさらに寝室2室が設けられていた点です。図面には床仕上げの記載を欠いていますが、「生駒時計店新築工事設計書」の雑之部には寝室の畳に関する仕様が記されており、畳敷きであったことがわかります。広さは約16畳と約10畳で、ともに一畳ほどの踏込みを備え、また東面窓の下には地袋が造られていました。簡素な作りであることから、住込みの丁稚さんらの部屋であったと思われます。外観は近代的ビルですが、内部には町家的な要素が残されていたのです。
現在、今昔館の展示解説のツールとしては図録、解説パンフレットのほか、近世展示室では風呂屋シアターによる解説及び町家ツアー、音声ガイドの貸出などがおこなわれています。また近代展示室では「住まい劇場」の上演のほか、各展示コーナーには解説文が掲出されています。来館者はこれらの解説により展示をわかりやすく鑑賞することができますが、今後は解説のデジタル化や観覧者一人ひとりのニーズにあわせた解説の提供など、よりきめ細かな解説が求められています。この目録を活用し、展示解説の充実が図られることを期待します。
※文中の所蔵先は調査時のものです。
新谷 昭夫(元大阪くらしの今昔館副館長 )